<1本の木切れから>
今から約40年前、この写真の場所で遠矢国利名人は1本の木切れをナイフで削り、ウキを作りました。それが、今日の「遠矢うき」の原型となりました。
当時はまだ相模原(さがみはら)ナンバーの車で海岸まで通っていたので、見学人から「相模(さがみ)さん」とか「相模名人」と呼ばれていたそうです。そのウキで毎回、魚を大爆釣するものですから、近くにある釣具屋さんに「そのウキを見せてみろ。ふむ・・・(考え込む)・・・このウキで、餌代をタダにしないか?」と言われ、卸売をしたのが世に出るきっかけとなりました。
<名人の釣り歴>
名人の最初の釣りは、島根県は匹見峡でのハヤ釣りだったそうです。やがて、関東へ移住。相模湖でのヘラ釣りに夢中になり、茨城県の涸沼川でハゼを釣ったのが海釣りとの出会い。やがて海へ足げく通うようになります。やがてハゼ釣りの最中にサヨリが釣れ、今度はサヨリ釣りに没頭します。この時はヘラ浮きで釣っていたのですが、ある時ボラがかかり、その強烈な引きにびっくりしてボラ釣りにハマったそうです。毎日寝ても覚めてもボラ釣りでとうとう家に帰らなくなったとか。家に帰らないものだから、とうとう手持ちのヘラウキが無くなってしまい、ふと燃え残りの木のかけらを削り始めたのです。それが、初代遠矢ウキの誕生となりました。
そしてボラの近くで見え隠れする大きな魚=クロダイを釣るようになってからはより一層、ウキ作りに熱心に取組み、その結果、昭和50年に現在の「遠矢うき」が完成したのです。試作で釣りに行くとメジナも面白いように釣れ、その結果に名人は自信をもったと言います。
当時はまだ、磯や堤防のウキと言えば、特に関東では玉ウキタイプやアタミウキタイプがほとんどだったので、ヘラウキのような形状の浮きは周囲の釣り人たちの好奇の目にさらされたそうです。
「このウキで私は面白いようにメジナやクロダイを釣りまくった。」と名人は言います。
<メジナヘラウキから遠矢うきへ>
釣具屋さんで売り出したこのウキは当初、「メジナヘラうき」と呼んでいましたが、釣り仲間が「遠矢ウキにすれば?遠くへ飛ぶ矢のようなウキ、いいじゃない!」とネーミングしてくれました。こうして昭和51年、雑誌「つりマガジン」のグラビアで正式に遠矢ウキと命名され、広く一般に知れ渡ります。そしてその年の12月5日、スポーツニッポン誌上で「南房総千倉の釣りを一変させた奇跡のウキ」と紹介されるに及んで、遠矢ウキは一躍脚光を浴びることになるのです。
<今も変わらぬ手作りのウキ>
遠矢名人はこう言っています。「遠矢ウキは磯釣りを変えた。私の人生を変えてくれた。このウキを大量生産すれば私の人生はまた変わるだろう。しかし、私にはそういう気持ちはまったくない。このウキは、遠矢国利というひとりの釣りキチが作っているからこそ”遠矢ウキ”なのだ。」と。現在も遠矢ウキは「手作り」にこだわって、1本ずつ丁寧に作られています。使ってみて、その精度に感動さえ覚えるウキはこのウキだけでしょう。
・・・この場所に、いつか「遠矢うき発祥の地」と看板を立てたいと編集部スタッフはひそかに夢を描いています。皆様もこの磯を見かけることがあれば、ここで生まれたんだなあと、遠矢うきに想いを馳せていただければ嬉しいです。